Pierrot Ecrivain Sur Un Banc
『手紙を書くピエロ』
オイルランプのほのかな灯りのもと、テーブルに向かい一人手紙を書くピエロ。
深夜、聞こえてくるのは彼が持つペンが便箋の上を滑る音だけ。
やがて彼は睡魔に襲われこうべを垂れる。
ふと目覚めるとランプの炎は消えかかっている。
目を開けた彼は再び灯りをともし、また長い恋文をしたため続けます。
1900年、数多くのすぐれた作品を残したランベールの復刻。
オイルランプには実際にオイルを入れ、灯りをともし羽ペンを目が追う様はなんともリアルに表現され、
当時の作家レオポルド・ランベールの作品の看板とも言えます。
<サイズ>
・H:620mm
・W:600mm
<サイズ>
・H:620mm
・W:600mm
・D:430mm
<作者概要>
レオポルド・ランベール Leopold Lambert(1854~1935)
当初ランベールはヴィッシー(オートマタの黄金期を築いた作家の一人)と共に働いており、
アトリエはパリのブルマール・サンジェルマン26にあったが、その後、モンジュ通り21に移転した。
1876年に妻、ヨージェニイ・マリ・ブルジョアと結婚。彼女はオートクチュールの特技を持っており、彼のオートマタのコスチュームを担当した。
1886年パリのポルトファン通り13にて独立し、1893年、シカゴ世界博に出品、その後15人の職人を雇い、
パリ世界博、セントルイス世界博、ベルギー、ミラノの博覧会に出品し好評を得たが、1910年頃から経営不振に陥り、
1914年には第一次世界大戦が拍車をかけ、アトリエは閉鎖せざるを得なくなった。
しかし現在、サザビーズ、クリスティーズ等に代表される著名なオークション会社において、
稀に取引されるこれらのアンティーク自動人形(オートマタ)は、
他の作家をしのぐ卓越した技術力、造型力を持っており、好事家の間でも高い評価を得ている。
1935年死去。
Charmeuse De Serpent
『蛇とクレオパトラ』
クレオパトラを題材として製作されたといわれるこの作品は、他の作品にはみられない独特の落ち着きと気品に満ち、
優雅に動く様はまさに『オートマタ』の神髄ともいわれます。
右手に持った笛を吹くと、彼女にまとわりついた毒蛇の鎌首はまるでそれに操られるかのようにゆっくりと踊り出す。
しかも、数秒に一度、呼吸をするかのように彼女の胸が息づくという繊細さ。
自らの腕を毒蛇に噛ませ、自殺を図るというクレオパトラの物語がそのままモチーフとなったこの作品は、
当時のオートマタ作家であるアンリ・エルネスト・ドゥカンが1890年に製作した代表的なものを現代に蘇らせたものです。
<サイズ>
・H:950mm
・W:440mm
・H:950mm
・W:440mm
・D:400mm
<作者概要>
ルーレ&ドゥガン Loullet & Decamps
当時そのアトリエの職長であったアンリ・エルネスト・ドゥカンはジャン・ルーレと結婚。
ジャン・ルーレは以前より動物を主体とする数々のオートマタを製作しており、輸出するまでになっていた。
1889年、ジャン・ルーレとドゥカンは本格的に共同製作を開始し、パリの世界博にドゥカンの作品を出品、また輸出にも力を入れた。
1893年にはシカゴ博に共同出品し、この頃既に50人の会社となり、量産体制に入った。
その後ジャン・ルーレは引退し、娘と娘婿に経営を譲ることになる。
1907年のジャン・ルーレの死後、ドゥカンは電気によるオートマタを次々と世に送り出し、1908年にはロンドンの仏英博に出品。
この頃より電化オートマタが従来のゼンマイ式にとって代わる時代となった。
1909年、エルネスト・ドゥカンの死後、息子であるポールとガストン、それに娘のジルベールが後継者だったが、
ポールは第一次世界大戦にて戦死、実質的にはガストン・ドゥカンがその後のドゥカン商会を支えることとなる。
その後、美術国際工芸博に出品、ショーウィンドウ用の大型オートマタに力を入れる。
1963年、アムロ通りに会社を移すが9年後にガストン・ドゥカンが死去。
娘のコゼットと娘婿のジョルジュ・ベランクールが事業を継ぎ、電気仕掛け、ラジコン、リモコンによるオートマタを現在でも製作中である。
Fumeur De Narghile
『水煙草を吸う東洋人』
当時、フランスの植民地であった北アフリカ、中東諸国に存在する異国人たちは、
彼等オートマタの作家たちにとって格好の題材とされ、もちろんこの作品もその代表的なものです。
彼の右にある壺には、実際に火の付いたタバコを入れると、左手に持った紅茶を楽しみながら、
彼等オートマタの作家たちにとって格好の題材とされ、もちろんこの作品もその代表的なものです。
彼の右にある壺には、実際に火の付いたタバコを入れると、左手に持った紅茶を楽しみながら、
実際に口元から煙を吐き出し、いかにも煙そうに目を瞬きます。
もちろん当時、日本もいろいろな形で興味を持たれ、日本髪を結ったオートマタも誕生しています。
その後、アールヌーボーの時代を迎える事になるのは、あまりにも有名な話です。
<サイズ>
・H:690mm
・W:430mm
もちろん当時、日本もいろいろな形で興味を持たれ、日本髪を結ったオートマタも誕生しています。
その後、アールヌーボーの時代を迎える事になるのは、あまりにも有名な話です。
<サイズ>
・H:690mm
・W:430mm
・D:470mm
Horloger
『時計師』
この作品は私自身のオリジナルであり、2003年にスイスの有名な時計メーカーである『ブランパン社』より依頼され、
2004年『ブランパン・ウォッチ・メーキングアート展』のために特別製作したものです。
アマデウス・モーツァルトを思わせる時計師が、目にはキズミと呼ばれる拡大鏡をはめ、右手に持ったピンセットを巧みに操りながら・・・。
しばらくすると足踏み式の旋盤を回し始め、一つの時計を一人の職人がコツコツと作り上げるという当時18世紀、
ブランパン社が発足したルイ王朝真っ只中の衣装で再現されています。
<サイズ>
・H:590mm
・W:600mm
・W:600mm
・D:430mm
Petit Prestidigitayeur
『手品師』
1900年、フランスのルイ・ルヌーによって製作された作品のレプリカで、
ビスキュ(陶器)で作られた可愛い顔の手品師がテーブルの上で手品を披露します。
リンゴ、オレンジ、ケーキなど次々といろいろなものを登場させ、観客を驚かせます。
また子供がもて遊ぶ玩具がなかったこの時代、さぞこれを見た人達は驚嘆し、拍手を贈ったことでしょう。
<サイズ>
・H:580mm
・W:240mm
・W:240mm
・D:290mm
<作者概要>
ルイ・ルヌー Roui Renou
1847年、パリのオーミール47番街にルヌー社の前身、デファイ&ラフォレが設立。
その後、ラフォレからデファイの養子であるベルガーに受け継がれ理事長となる。
彼は1873年にパリ、モンモランシー5番街へと移り住み、最終的には1878年に同じ通りの19番街に落ち着きました。
その後、1886年にベルガーの甥であるルイ・ルヌーが後を継ぎ、当初は高級なオートマタを手掛けていた彼も、
次第に一般庶民に手が届くような普及品の開発に努め、それが成功へとつながりました。
複雑で大きな人形から、その大きさを半分にし、機構の簡素化を進め、高級品から普及品へと移行したわけです。
そして1922年、ルイは会社を辞任し、優秀な助手であった息子のルドヴィックに会社を任せることになります。
ルドヴィックは1930年代に電動機械を導入、工場を近代化させオートマタが廃れていったとき、
手頃な価格の『Poupée Renou』という人気商品を開発しました。
1957年に会社は彼らの子供達へと引き継がれ、ルイ・ルヌーは1958年に亡くなりました。
Fille faisant du vélo
『自転車に乗る少女』
スイスの代表的なオートマタ作家・故ミシェール・ベルトラン氏の名刺にも使用されている。
自転車を足で漕ぎながら、右手を振って挨拶の仕草をする愛らしい少女。
ハンドルに掛けられたバスケットには花束が・・・。