『始動』
息を吹き込まれたゼンマイは、躍動感溢れる生命体だ。その力の全てを向き合うギアに託していく。しっかりと、確実に。
『躍動』
精密に組まれたその体は、技を繰り出し、光を放ち、音も操る、可能性は無限大なのだ。その姿は、ひたすら仕事に集中する職人のようだ。
『折り返し』
この地球上で気温差の影響を受けるのは、人も機械も同じだ。人に水分が必要な時、機械にはオイルが必要だ。互いに労わり合いながら生きてみる。
『再起・・・』
全ての命には終わりがある。疲れたらペースを落としてもいい。休んだっていい。だって、ずっと頑張ってきたんだから・・・。
私は機械が好きです。何故なら機械は嘘を付かないからです。
設計が悪ければ、あるいは手を抜けば即座にトラブルとして現れてくれるからです。
人間で例えるなら「顔に出る」っていうヤツですね。正直だから・・・。
『決して嘘をつかない、虚飾しない』これが私の座右の銘です。
時計のメカニズムから生まれたヨーロッパのからくり人形ですが、いったい中の仕組みはどうなっているのか?
子供の頃からゼンマイ仕掛けのブリキ玩具に慣れ親しんできた私にとって、この摩訶不思議な世界がとても魅力なのです。
ヨーロッパでは14世紀以降、音楽を奏でる「からくり人形」を組み込んだ古い時計塔が多く見られました。
この人形は「ジャック」と呼ばれ、「ジャック」はルネッサンス期に入ると当時の時計職人が自らの腕を競うようになり、
より複雑で精巧なものが登場し、やがて「オートマタ」として発展してゆきます。
基本的には18~19世紀のオートマタを忠実に・・・をモットーに製作していますが、
多少、私なりにアレンジしている部分もあります。
例えば、ワビサビを好む日本人向けに、ゆったりした動きにするとか・・・。
設計図から始まり、最終的にイメージ通りに動いた時の感動を味わいたくて、作品を世界の人達と同じ喜びと感動を共有出来たら幸いです。
オルゴールが奏でる優美な響きと共に、ヨーロッパのマイスターが生み出した動く芸術品。
妥協を許さず、忠実に再現された衣装とバランスの取れた色彩感覚。
昔の伝統を守りつつ現代にマッチした素材を使用。
ヨーロッパの産業革命を彷彿させるメカニズムの集積。
私の名前は堀江出海(ほりえいずみ)
”お堀”の堀に、”入江”の江。どちらも水が澱んでいるので広い海に出してあげたいとの願いからと・・・。
今は亡き父が名付けた名前です。
「あなたの家は、お寺さんか・・・?」って!!だから幼い頃は自分の名前が嫌でした。
そして私は幼少期から無口で、一人遊びが好きでした。
第一次ベビーブームの真っ只中、近所には同年代の仲間が沢山いるにも拘わらず、ひとり玩具で遊んでいました。
東京下町、江戸川区小岩で七人家族の次男として育った私は、常に母親の背中におぶさり、母の鼻歌を聞きながら二軒長屋で過ごしました。
貧しいながらも、毎年クリスマスには、親からオモチャをプレゼントされました。
ところが折角買ってもらったオモチャで遊ぶどころか、何故動くのか不思議でバラバラに分解してしまい、よく親に叱られていました。
一日中、友達と遊ぶことなく一人黙ってひらすらオモチャと格闘するのが私の楽しみでした。
私は温厚でおとなしく穏やかで、人と争う事が嫌いな性格でした。
そんな私が小学校に入学すると、いじめの格好の餌食になるのです。常におとなしく抵抗もしない・・・。
しかし「学校へは行きたくない!!」と思ったことは一度もありません。「学校へは行くものだ」と思っていたからです。
そんな私が小学三年生になった時、校内で写生会があり、その発表会で学年一位を取りました。
元々幼い頃から絵を描くことが好きで、よく親に"塗り絵”をねだりました。
私の父は山梨県の山間部、猿橋という田舎で生まれたのですが、海のない場所にもかかわらず、海老の絵を描いて表彰されたそうです。
そんな父の血を受け継いだのか、毎年の写生発表会では表彰の常連となりました。
もう一人"長峰君"という絵の上手いライバルがいて、彼が金賞を取るか私が取るかが恒例となっていました。
そんな事がきっかけで、それ以降、私に対する"いじめ"が無くなりました。
幼いながらに、人間の"いじめ"は相手が自分よりも優れた才能を持っていると感じた時、相手を認め、攻撃しずらくなると悟りました。
そんな私も、いよいよ就職を選択する時期となりました。
他人と接するのが苦手だった私は、他人と口をきかなくても給料を頂ける職業はないものかと考え始めると、
ふと幼い頃、父が長年使用していた腕時計が壊れ、街の小さな時計屋さんに父と一緒に行った時の場面を思い出しました。
店内に入ると、店主に壊れた腕時計を見せている父の姿を横目に、一人作業するおじさんが雪見障子の奥に見えました。
そのおじさんは座卓の前にあぐらをかき、頭にはレンズらしき拡大鏡がはめられ、電気スタンドの明かりを頼りに父の腕時計をしきりに見ています。
きっとこのおじさんは、一日中部屋に閉じこもって時計の修理専門で給料を貰って生活している人なんだと・・・。
その残像が今、蘇ったのです。
こんな私に適した仕事は他には無いと・・・。
そして新聞の募集欄で、たまたま見かけた千葉市の時計屋さんに応募します。
当時、東京から親の都合で千葉県佐倉市に引っ越しをして間もなくの頃です。
"経験不問"、"交通費支給"の文字が私の心を躍らせました。
その千葉の時計屋さんで2年間過ごしました。
最初は時計の機械を触れせてもらえず、もっぱらゼンマイの掛け時計の外枠をクレンザーを付けた布で綺麗に磨くのが私の日課です。
その後、徐々に掛け時計から置時計、目覚まし時計そして腕時計へと・・・。
そんな日々が続く中、私の技術も次第に向上し自信もついてくると、毎日国産の修理だけでは飽き足らず、もう少し高級ブランドの時計もチャレンジしてみたいと、欲が出てきました。
でも、個人の時計屋さんでは、その類のブランド物を修理に持ってくるお客は来ない。
そこで思いついたのが百貨店の時計売り場です。デパートなら高級品の時計の修理が沢山出来るだろうと。
早速、募集もしていないのに飛び込みで、当時私の家から最も近い船橋の西武百貨店の時計売り場の門戸を叩きました。
本部での研修期間の半年を終え、希望の船橋西武の時計売り場での就職が始まります。
私の会社は、西武百貨店のテナントとして長年、時計・宝石の販売及び修理を生業としています。
私は毎日、ガラスで仕切られた1坪程の小部屋の中で、お客からは丸見えの状態で作業をしています。
女子社員が持ってきたお客の時計の状態を見極め、素早く修理代金を見積って女子社員に伝えるのが私の業務です。
だから、私とお客が直接対面することは基本的にはありません。
ところが、土、日、あるいは祭日にはそうはいきません。
接客に忙しい女子社員が私にこう言うのです。
「堀江さん、私、他のお客さんの接客中なので、あそこに座っているお客様に見積もりをお願いしてもいいですか?」
そうです、私が恐れていた直接対話の機会がくるのです。
普段、私は医者が着るような白衣を身に着け、頭にはルーペと呼ばれる拡大鏡を付け、お客から預かった時計を小さなお盆に乗せ、受付テーブルにお客と対面する形で見積金額を伝えるのです。
緊張の場面です。
当時私は22歳。殆どの場合、相手は年上のお客様です。中には80歳を超えるお年寄りも・・・。
そんな日々も年月を経過し、徐々に慣れてきたある日。
一人の初老の男性がやって来ました。日曜日の一番混んでいる時間帯です。
その時も私が直接対話をしました。
見積金額を相手に伝えた後に、そのお客は私に対してこう言いました。
客:「修理金額がそんなにかかるなら新しい時計を買って帰るから、堀江さんがお薦めの時計は何かありますか?」・・・と。
※その男性は、予め私の白衣の胸に付けたネームプレートを見ていました。
私:「ご予算は?」
客:「堀江さんがお薦めなら幾らでもいいですよ。」
私:「そうは言っても大体のご予算がお有でしょう?」
客:「大丈夫です、堀江さんがお薦めのものなら。」
※もうこの時点でこの人は私を信頼してくれているのです。
この日は結局、ロレックスのステンレスとK18のコンビの時計を買って帰られました。
もしこのお客が平日に来ていたら、女子社員が対応し、このような展開にはならなかったはずです。
当然のこと、この日の売り上げは達成し、売り場の責任者は大喜びでした。
この一件以来、私も人との会話に少しずつ自信を持ち始め、同時に人との交流の楽しさを味わえるようになりました。
数日後、先日ロレックスを購入されたお客が再び売り場に現れたのです。
いつもの小部屋で修理中の元へ女子社員が来て、「堀江さん、先日ロレックスを買って頂いたお客様が堀江さんを呼んでくれと・・・堀江さんをご指名です。」
見ると売り場に見慣れたお客の顔がこちらを見ながらニコニコして私に視線を送っています。
客:「堀江さん、先日は色々ありがとうございました。あれから会社へ行ったら仲間から、いい時計を買ったねって褒められました。
客:「実は今日伺ったのは、うちの娘が近々結婚することになって指輪のお返しに男性用の適当な時計を堀江さんに見繕って頂こうと思って伺いました。」
そんな事で、この日もスイス製の100万円程の時計を買って帰られました。
それ以降も私のところへ類似のお客様が増え、船橋はもちろん池袋、渋谷、近隣の西武百貨店の話題となり、しいては池袋西武、渋谷西武への栄転が決まります。
1.相手に誠意を持って接すれば必ず自分の利益として帰ってくる。
2.無口だけでは相手に伝わらない。
3.嘘をつかない。
4.相手の人間性を素早く見抜く。
幼い頃の無口だった私が大きく変わったきっかけは、こんな理由からでした。
話を飛ばして、私がオートマタと出会ったきっかけは1990年、私が42歳の時でした。
朝いつも通りに出社すると社長から呼び出しがあり「堀江君、来週スイスへ2週間ばかり行ってきてくれないか?君の他に全部で5人選んである。今晩にも奥さんには君の口からそう伝えておいてくれ。」
目的は200体程の人形を日本へ空輸する為、その人形を全て梱包するのが君らの仕事だ。
先方は70歳近いフランス人の老夫婦だ。
こちらから5人程、行かせる旨は既に相手に伝えておいてある。」
ざっと、こんな感じの社長の内容であった。
営業部門から2人、私を含めた技術部門から2人、フランス語が達者兼通訳の社員1人の計5人。
スイスエアーでジュネーブへ、そしてローザンヌからイベルドン。更にローカル線で目的地"サン・クロア"へ。
スイスとはいえ、もうあと500m程でフランスです。すぐ目の前に高さ1m程のレンガ積みの国境が見えます。
当日は到着が夜遅くになったため、ホテルへ直行。
翌朝、ホテルから本人ミシェール・ベルトラン邸までは徒歩で10分程。
3月初旬の事なので周辺の道には20cm程の雪が積もり、標高が高いのかスキー客が板を担いですれ違う。多分スキー場が近いのだろう。
遠くには雪を被ったアルプスの山々が晴れた青空に、まるで絵葉書のように綺麗に映っている。
私達を出迎えたのは、確かに初老の夫婦二人。
男は一見、60代半ば。
白くなった口髭をたくわえ、がっしりした体格。女性も同じくらいの年代だろうか、こちらは男とは逆に細身で金縁のメガネが妙にインテリじみて取っつき難い感じがする。
先ずは長旅の労をねぎらうつもりか、赤ワインとつまみで乾杯が始まった。
会社から送り込んだ通訳代わりの男性は一度、先発隊として先月に来ている。
もちろんフランス語が話せるため、ベルトラン夫妻との会話が弾んでいる。
我々はそれを黙って聞いてるしか能がない。
しばらくの歓談の後、我々は地下室への案内された。どうやら地下室に何かがあるようだ。
映画館に入ったように真っ暗だ。暫くしてようやく目が慣れてきた。
そこには沢山の人形たちが我々を凝視していた。
ベルトランは言った。これからいくつかの人形を動かすと・・・。どうやらゼンマイ仕掛けで動くらしい。
カリカリとゼンマイを巻き始めると、なんと今までじっとしていた人形の手足が動き始めた。
よく見ると手足はもちろん、瞼が瞬き、頭を左右に振り、中には呼吸をするように胸まで動くものもあるという。
そんな種類の人形が所狭しと置いてある。
更にその次に案内された部屋には、製作途中とみられる人形の体内の機械部分。
部屋の天井には頭、左右の手、足・・・。キャビネットの引き出しの中には眼球、歯、まつ毛まで入っている。
どうやらこのベルトラン本人が、これらの動く人形の作者兼古いオートマタの修復をして、更には古いオートマタのコレクターだという事が分かった。
そして一見、無縁に見える時計の販売会社の社長が、このコレクションを購入する動機となったのを私はこの時初めて理解した。
18世紀から19世紀にかけてフランスの時計職人たちの手によって当時まだ娯楽の少ないお金持ちの富裕層を相手にこれらの作品が誕生した事を知った時、私はすっかりこのオートマタの虜になっていました。
そんな素晴らしい出会いを提供して頂いた今は亡き社長に合掌です。